〈倶子オフィス〉このご13

May 2003

 

  

さくらの庭

詩はあくまでも風雅の領域にあり、その道は世を逸した場所であると感じていた
父が全くそのようだった。父の父ーー祖父もまたそのようだった。父には働きづく
めの連れ(母)がいた。祖父は勢いのある家長であった。わたしは小娘である。
おんなが文学などと、18(歳)のとき、家を出るとき、世の大人から真っ向から
指摘された。

ちょぎじゃの孫だもの、意地強(こ)や」と云われたことがある。病弱で、何ひとつ
運動の出来ない、背の低い小さな娘だったにも関わらず、である。父のみつめて
いるものを、みていることができるのだった。なにより父の娘だった。さくらの
はなびらのいちめんに散り敷く庭をみて、そのようなことを思いだした。

 

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March 2002

  

鬼百合

旅立ちの季節ですね。わたしは自分のはじまりを憶いだしています。そう、いつから
わたしの詩ははじまっていたのか、と。

ものごごろついたとき、父方の祖父がほとんどの日を過ごす山の家(と皆は呼んだ。
街の家と区別するため)には祖末ないろりがあって、そこに座ると、梨箱の出荷数
などを書きこんだりするもう古くなった黒板がみえていた。そこには必ず短歌が
あった。祖父・長蔵のである。
「……鬼百合の花」

わたしは窓からそれを探した。むこうの背の高いひと群れがその花であることを
知っていて、その強い朱色はわたしの好きなものでもあった。わたしはとても嬉し
かった。もう小学校に入っていただろうか、その漢字だけは読めたのだった。
とりまく身内には、頑固でワンマンで、まるで「なまはげ」のようだと敬遠されて
いた祖父であったが、しかし、わたしには祖父の想いがわかるような気がした。

わたしはそれからも思いつくとひとりで山の家へ行き、いろりごしに祖父の前に
正座した。いつも濁酒を飲んでいた。膝元には大きな硯、古色蒼然のたくさんの筆、
様々な墨。そしていつもなにかを書いていた。わたしはずっと正座して、夕暮れに
なるとそこを出た。祖父と話しこんだことは特にない。

わが家のまわりに人家はないので、わたしには友達というものがなかったし、また
子供の遊びをしたこともない。

わたしの詩はそのあたりから。祖父の鬼百合の朱が焼きついてしまったように、
いろりの前に正座して、そこで時折祖父とおなじ目で窓にかかる李
(スモモ)
の枝を見上げて実の色づき具合を確かめたことがあったように、つづるものが詩と
よべるものであったとしたら、それはわたしの呼吸そのもの、生きてることの。

  

   

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